21世紀HP_02_TOKYO-MOVE-UP!オープンカレッジ(PC)20160405_03
Academy_banner_sp

1995/06/29 第4回

1995/06/29 第4回

中曽根 康弘氏 : (元総理大臣)
「日本の戦後50年とこれからの進路」

 

中曽根 康弘氏 : (元総理大臣)

大正7年5月生れ。群馬県出身。元内閣総理大臣。 衆議院議員。 昭和16年東京帝国大学法学部卒後、内務省に入省。昭和22年に衆議院議員初当選、57年に内閣総理大臣就任。 現在、自民党最高顧問、世界平和研究所会長。

日本の戦後五十年とこれからの進路

 戦後五十年に際し、一面的な歴史観や価値観を排して過去の行為を検証し、過ちを繰り返さぬよう現在の制度の問題点を改めねばならない。混乱の時代を乗り切るためのスケールの大きな改革構想の実現に向けた「第三の開国」のため、新勢力が結集する必要がある。

大東亜戦争をどう考えるか

 戦後五十年を考えるにあたっては、昭和のもっとも大きな事件であった大東亜戦争をどう考えるかということからスタートすべきであると思います。現代の人間にとって一番大事なのは、歴史的な洞察力や展望力であり、それから現在の我々の座標の位置が分かるのです。
国際的にも国内的にも、我々自身の座標の位置が分からなくては、現在我々が向いている方向も分からないと思います。
 そこで戦争について考えてみると、これは非常に複雑、総合的、立体的なものであり、一概に言えるものではないと私は思います。大東亜戦争とは言いますが、正式な名前は付いていないのです。
 戦争中の日本では大東亜戦争と呼んでいましたが、占領下の東京裁判では太平洋戦争と呼ばれました。ヨーロッパでは第二次世界大戦と呼んでいます。このように、この戦争の定義や正体は必ずしもはっきりしてはいません。

アジアに対しては謝るべき要素がある

 私はあの戦争については、局面によって判断すべきだと考えます。
例えば、少なくとも中国に対しては侵略的要素があったと認めざるをえないでしょう。大隈内閣当時は帝国主義の時代ですから、フランスやドイツに負けないよ うに、 対華二十一箇条要求で、日本も中国に利権を要求したことがあるのです。あるいは、中央の不拡大方針に反して軍部が独走し、張作霖を爆殺したり、柳条溝で満 州鉄道を自ら爆破して満州事変の発端としたり、満州国外の中国に膨張して行った経緯等の様々な局面を見ると、明らかに侵略的要素があったと言わざるをえな いと思います。
 南方についても、アジア解放のために植民地を解放すると言われてはいましたが、はたして主因がそうであったのかについては、問題がありそうです。つま り、少なくとも軍部においては、アメリカに勝つための止むを得ざる措置として、インドネシアや海南島等の石油や鉄鉱石等の資源を取りに行ったという局面が あったのではないでしょうか。
 そして植民地を独立させるとも言っていましたが、終局的に独立させた例はあまりありません。昭和十八年の十一月に大東亜会議を開催し、各地の指導者を集 めて大東亜宣言を行いました。その宣言でフィリピンを独立させたと言っていますが、実際はアメリカが十年も前に独立を約束していたのです。
ビルマを独立させた事についても、英印軍が迫ってきており、独立させざるをえなかったという状況がありました。一方、インドネシア等は独立させなかったわけです。
 このような局面を見ると、言っていることは立派でしたが、アメリカに勝つために鉄鉱石や石油等の資源を取りにいって、ともかく不敗の体制を作ろうとした のが実際だと思います。そこには、適性であったアメリカやイギリス、オランダ等の植民地を覆滅させようという意味はあったのかもしれませんが、現地の人に とってみれば、アメリカやイギリスの代わりに日本が一方的に軍靴で入ってきたということになるでしょう。
ですから、これもやはり侵略的な要素があったと言わざるをえないと思います。韓国については、これは戦争ではなかったと思います。そして、日韓併合条約に ついては、関係国の了解を得た面もありますし、国際法的にも両方が調印したので成立していると言われています。しかし、これも帝国主義時代の産物であり、 軍事的な強い圧力のもとに行われたものです。韓国側の南下を防ぐためにそういう措置を取ったと言いますが、これは日本のひとつの利己主義とも考えられま す。
 そして、創氏改名や、朝鮮神宮の参拝等で韓国側の民族的なプライドを著しく傷つけたことも否定できません。そういう意味において日本が謝るべき要素があ ると思います。ですから、私は韓国に行って謝ってきました。謝ることは恥ずかしいことではありませんし、むしろ謝るほうが勇気を要することもあるのです。

米英とは普通の戦争であった

 しかし、米英との戦いについては、これは普通の戦争だと思います。つまり、帝国主義時代の上海や香港における英国との、あるいはフィリピンにおける米国との、インドネシアにおけるオランダとの日本の利権の衝突に、米英との戦争の遠因があると思います。
 そして、欧米との戦争には自存自衛という面もありました。昭和十六年の七月に南部フランス領インドシナに日本が進駐した際に、アメリカは日本に対する石油や鉄鉱石等の輸出を断ち、通商航海条約も破棄しました。こうなれば、日米の開戦は必然であったと思います。
 つまり、日米交渉がこじれて仏印進駐という事態に至った時から、アメリカは日本とは必ず戦争になることを覚悟しており、それはアメリカ側の多くの内部資 料にも示されています。アメリカは当時は孤立主義をとっており、欧州の戦争には参戦できませんでした。ですから、日本にアメリカに戦争を仕掛けさせてアメ リカに参戦させ、日本の同盟国のドイツとも戦わせるという戦争をチャーチルが立てて、ルーズベルトを盛んにたきつけたという面もあります。
当時のアメリカではルーズベルトやスティムソン陸軍長官、ハル国務長官、モーゲンソー財務長官等が開戦論者であり、特にスティムソン陸軍長官は猛烈な反日的開戦論者でした。
 日本は九月六日に、いろいろ交渉してもだめなら対米戦を決意するという決定を下していましたが、それを伝える電報が全てアメリカに傍受・解読されていたのです。ですから、日本とは必ず戦争になるし、むしろ早く開戦させろという者までアメリカにはいました。
 十一月二十六日にアメリカが提示した『ハル・ノート』を見ても、中国からの全面撤退や満州国の否認が内容であり、日本側はこれをアメリカの最後通告とみ なしたわけです。アメリカは、普通の独立国家なら必ず開戦を決意するような、言わば果たし状をわざと突きつけて、日本に手を出させたわけです。一方、日本 も欧州ではヒトラーが勝つだろうと思い、特に軍がナチスの全体主義的な思想に強く影響されていたので開戦に踏み切ったのです。ドイツが負けると思ったら開 戦しなかったでしょう。現に近衛首相は一月の議会でドイツは勝つと言っています。そして、Lebens-raum(レーベンス・ラウム)といわれる生活圏 や生命圏、勢力圏という思想の影響下に、大東亜共栄圏という発想・構想も出て来たのだと思います。
 日本にもいくつかの負い目はありますが、国と国との交渉が不調な場合には、最終的には実力で解決するというのも、国際間のルールです。ですから、日米交 渉の不調により戦争になったのは普通の戦争だと思います。しかし、真珠湾に先に手を出したのは日本の失敗でした。ワシントンの日本大使館の不手際で遅れて しまったのです。
 アメリカやイギリス等との関係は、以上のような意味において普通の戦争であったと私は思います。しかし、中国等のアジア諸国には、日本が一方的に入り込み、有無を言わせず軍靴で蹂躙したという要素があります。
 ですから、大東亜戦争(私は日本がつけた名称が大東亜戦争ですので、そう呼んでいます)は非常に総合的、複合的なものであり、局面によって性格が異なり ます。従って、あの戦争について一概に侵略であるなとは言うわけにはいかないと思います。ですから、大東亜戦争についてはそのまま正確に国民に真相を伝え ることが大事だろうと思います。

自然共同体として発生した日本の国

 私は国会で以上のような答弁をして、常々言っていることの第一は、皇国史観を排除することです。皇国史観は天孫降臨の神話を現実のものとして考えた戦争前の歴史観です。
 第二は、東京裁判史観を排除することです。つまり、マッカーサーが東京裁判で示したアメリカ側の一方的な歴史観や思想等を排除することです。第三は、これまで述べて来たように、戦争には局面によりいろいろな性格があるということです。
 第四は、国民のほとんどが、特に純真な青年や学徒の大部分は、日本を防衛するために、あるいは植民地を独立させるために、純真な気持ちで戦争に行ったのだということです。
 祖国防衛という真面目な気持ちでなくして、特攻隊になど出るはずもありません。ですからそういう現実を我々はきちんと認識して子孫に伝えておく必要があるのです。
 マルキシストや共産党等が言うような、帝国主義日本が一方的にアジアを侵略したという発想(これは基本的には国家をなくしてしまおうという唯物史観から きているのですが)が戦後は非常に多く出ました。それは学者やジャーナリストの大半をマルキシストが占めていたからですが、その余韻が今でも日本に流れて います。つまり、国家とは暴力装置であり、いずれなくなっていくものだという発想です。
 しかし、我々から見れば、日本の国は自然共同体として発生しているのです。縄文時代から弥生時代、古墳時代を経て天皇家が誕生し天皇の勢力が強くなって 次第に国家を形づくっていったとう、自然成長的な共同体として日本の国は発足したのであり、欧米のように契約によってできた国ではありません。
 その日本をマルキシズム史観で暴力装置として考えて、架空の構図で物事を裁断していくやり方は、きわめて非科学的・非現実的だと私は思います。国家は良いことも、場合によれば悪いこともするのですから、悪いことをした時には謝るのが当然だと思います。

国会で謝罪決議をすべきではなかった

 ですから当初、歴代の総理大臣は施政方針演説で謝罪をしていますし、韓国や中国、インドネシア等の各国へ行く時には正式に演説で謝るべきところは 謝っています。そういう意味では謝罪は済んでおり、戦後五十年だからといって、あらためて謝罪するようなことは、今までの歴代の総理大臣の行為が無駄だと いうことにもなりかねません。
 いわんや国会とは立法府であり、国民のあらゆる層の考えが出てきて、議論を戦わせ、法律に反映されるべき場所であり、そのような立法府がひとつの考えで まとまるなどとは考えられません。もしまとまったとしても、それは全体主義です。従って立法府で謝罪決議をすることは適当ではありません。それは外交権を 持つ政府あるいは内閣、総理大臣がやればよいことです。
 国会で謝罪決議をしようと発想したのは土井たか子さんであったと思いますが、二年前の総選挙の時に、新生党の人で、社会党と組んで反自民政権を作るため の方便として、選挙演説で国会で謝罪決議をやろうと言った人もいます。そういう不純な思惑や権力闘争のもとで国会決議をやるべきではありません。国会決議 とは原則として満場一致で成されるものですし、このような思想に関する重要問題については満場一致であるのが筋でしょう。それができない場合には決議をし ないほうがよいのです。
 そして過去の歴史を処断するようなことを、今の国会がやるべきではありません。それは歴史家の範疇に属することなのです。現在の考え方も変わるかもしれ ません。歴史をは、新たな事実に従って書き換えられてゆくものです。そのような考え方に立って、私は謝罪決議は国会でやるべきではなく、むしろ政府がやる べきであると言ってきたのです。
 ですから、政治家の発想の最初のボタンをかけ違うと大変なことになります。先の戦後五十年決議にしても、新進党は欠席で、共産党は反対、出席議員は定数 五百十一人の半数にも満たりませんでした。そういう無様な格好で行った決議ですから、繰り返し言っているように、謝罪をするのであれば、政府が行うべき だったのです。
 政府は二年か三年で移り変わるものですから、戦後五十年で謝罪をするにしても、それはその時の政府の考えで行ったことになります。従って、文章を選び、言葉を選んで政府がやるべきものでした。
 謝罪については、「ドイツは謝罪しただろう」とよく言われますが、それはワイツゼッカー大統領の演説について言っているのだと思います。しかし、ワイツ ゼッカーはドイツ民族やドイツ国家についてはひと言も詫びていません。ヒトラーのナチスが国家的犯罪を組織的・計画的に行い、ユダヤ人等をアウシュビッツ 等で殺りくした事件に対して、ワイツゼッカーは心から謝罪しているのです。
 戦争には必ず殺傷行為が伴われるものですが、日本はナチスとは違い、国家的意図においてユダヤ人虐殺のような残虐行為は行っていません。ですから、冷静 に歴史の局面を見分けながら、国のあるべき姿を間違えないようにすることこそが、今日の日本に必要なことであり、戦後五十年を経過して、我々が反省して考 えなくてはならないことではないでしょうか。

鎮魂のために靖国神社を公式参拝

 もうひとつ私が皆さんに言っておきたいのは、靖国神社の問題です。昭和六十年に私は内閣総理大臣として靖国神社に公式参拝をしました。なぜかとい えば、戦争前は靖国神社は厚生省と陸軍省、海軍省の所管である国家法人、国家の機関であり、神主は大佐待遇の高等官、奏任官でした。そして兵隊は死んだ ら、国家機関たる靖国神社に祭られることになっていたのです。これは言わば一種の国家との契約でした。
 ですから、我々にしても、海軍の二年現役で連合艦隊に配置される時には、「靖国神社で会おう」と言って別れたのです。その約束を守るために、今でも生き残った同期生は、靖国神社に年一回参拝しているのです。
 ところがマッカーサーが神道を廃止し、神社の公式参拝も禁止されました。占領中はしょうがないでしょうが、占領が終わったら、日本は独自の考えを回復す べきです。靖国神社の英霊にしてみれば、「戦死したら靖国神社に祭られて参拝してくれるはずが、放ったらかしにされている。こんな契約違反を国家がやって もいいのか」と言うかもしれません。ですから、これは総理大臣が正式に参拝をして、「ご苦労さまでした。我々はあなた方のご功績を譖え、安らかにお眠りで きるように、平和国家を築いていきます。」と鎮魂のために一回は言わなくてはならない問題だと私は思っていました。
 ところが、ここに憲法二十条の政教分離の問題が出て来ました。憲法二十条に関しては、津市が市体育館の起工式の際に、神主を呼んで祝詞をあげてもらって 地鎮祭を行い、それに市の費用を使ったことを巡る訴訟がありました。この津市地鎮祭事件に対する昭和五十二年の最高裁の判決は、この場合の地鎮祭は社会の 習俗であり、一般的慣習であるから、それがために神道が奨励されたり他の宗教が阻害されたという問題ではないということでした。つまり、市の行為は憲法二 十条に違反しないというわけです。それならば、靖国神社に総理大臣として参拝しても、神道の儀式によらず、お祓や二礼二拍手一拝もせず、国に費用を使わ ず、奥の神殿の正面まで行って、最敬礼をして黙?して帰ってくるのであれば、それは神道によるものではないのですから、憲法違反ではないはずだと私は解釈 をし、いろいろと専門家にも研究させて、靖国神社を公式参拝したです。
 国家とは一種の有機体のようなものであり、因縁や精神、伝承等が人の心の中に受け継がれて、生きてゆくものなのです。そういう有機体的な要素があってこそ国家が存在しているということを、皆さんに考えていただきたいと思います。
 日本の国は、マルキシズムが考えるような暴力装置でもなく、米英が考えるような契約的所産でもなく、nation(ネイション)のもとのnatio(ナ チオ)という、文化的共同体、運命共同体のようなものからできているのです。国家とは、歴史の累積の上にできてくるものだということが、戦後五十年にあた り私が皆さんに強く言いたいことなのです。

歴史を学び、過ちは繰り返さない

 そこで我々としては何をすべきかというと、一つはなぜあんな大戦争を行ったかについて、日本の国家の欠落をよく勉強し、分析して子孫に伝え、過ち を繰り返さないということです。これは、明治憲法における統帥権、軍事権は天皇に直属することになっていました。ですから、軍令部あるいは軍の参謀総長 は、天皇に直接報告し、指示を仰ぐべきだという解釈が出て来ました。しかし伊藤博文や山県有朋、松方正義等の元老が生きている間は、彼らの人間的な迫力に より、何とか調整が成されていたわけです。
 ところが大正に入って元老がみんな死亡すると、もはや人間的な調整をする者が不在となり、そして統帥権の独立がワシントン会議の海軍軍縮条約のもとで爆 発し、軍が統帥権を振りかざして、軍のことは軍がやるので内閣に報告する必要はないとうこととなり、内閣の言うことを聞かないで現地の軍が暴走した結果、 大東亜戦争に至ったのです。ですから、大正十年頃に憲法を改正して統帥権について内閣の下にきちんと直しておけば、このような悲劇は避けられたでしょう。

憲法や国政上に検討を要する課題が

 現在の日本国憲法についても、憲法九条と国連憲章の関係について、あるいは集団的自衛権について、これから問題が出てくるだろうと思います。アメリカが何でも日本の面倒をみて守ってくれるという今までの一方的な関係のもとで、日本はこれから生きていけるでしょうか。
 冷戦下ではアメリカとソ連の両陣営のどちらかに所属していれば、何でも超大国まかせでよかったのですが、今や冷戦構造が崩れ、ソ連が消滅し、個人や種 族、国家、民族、地域等の全てが、自己のアイデンティティを探しはじめ、自己主張を始めました。それがボスニア・ヘルツェゴビナの民族問題やソマリアの内 紛等にも示されています。
 このような混乱の時代に入ったことを考えると、今の日本国憲法自体も、再検討して、将来に過ちがないようにしておく必要があります。アメリカが将来にわ たって日本を守ってくれるかどうかはわかりません。日米安全保障条約は維持してゆくべきですが、しかしそれだけでよいのでしょうか。ドイツが第一次大戦・ 第二次大戦を引き起こしたわけは、ドイツとロシアがヨーロッパの蚊帳の外に置かれていたからです。それで例えば独ソ不可侵条約ができて、ドイツがあのよう に暴走したのです。そこで第二次世界大戦にドイツのアデナウワーは、ヨーロッパの中に入らなくてはならないというので、西に向い、フランスやイギリス等と 手をつないでEC(欧州共同体)やNATO(北大西洋条約機構)に入ったわけです。そして、そこでドイツは活路を見いだし、その力によりドイツの統一もで きたわけですから、この選択は正しかったのです。
 一方、日本は島国であり、海洋民族です。それが大陸に深入りすると、大陸の強烈な重力のもとに吸引されてしまうのです。歴史上でも、日本が不用意に大陸 に手を出した時はみんな失敗しています。我々は海洋民族であり、英国と同じように資源がないので、貿易で生きていけるわけです。貿易立国にとって大事なの は、航海の自由や貿易の自由などの自由主義であり、民主主義です。ですから、日本は自由主義・民主主義となる宿命のもとにあるのです。ところが中国やロシ ア、フランス等の大陸の大国は、資源の自給自足ができるので、統制経済の下で陸軍国になります。一方、イギリスや日本等の島国は海軍国になるわけです。
 ですから、ドイツが西へ向かったように、日本は基本路線として東に向かえと言ってきました。つまり太平洋に向かえ、超巨大な「島国」のアメリカと手を結 べということです。そのような基本的な観念を、もう一回我々はよく見直してみる必要があります。そして今言ったように憲法上や国政上の欠陥について、明治 以来にわたり再点検して、直すべきものは早く直しておかねばならないということです。もうひとつ大事な点は、歴史をその事実そのままに学生たちに教えなけ ればならないということです。今は明治維新以後の戦後の歴史についてはほとんど教えられていないと思います。ですから、現代史について我々は、学生たちに きちんと教えてゆくようにしなければなりません。

文化・経済の両面で大繁栄した戦後日本

 戦後日本の功績の第一は、私は日本の歴史上に偉大な文化的、経済的ピラミッドを作ったことだと思います。戦後五十年のこの繁栄、文化の浸透度は、 日本の歴史上でも稀に見るものです。織豊時代や安土桃山時代、徳川時代、明治時代等がわりあいに物質文明等が繁栄した偉大な時代だと思いますが、戦後五十 年はこれらをはるかにしのぐ未曾有の大きな文化的、経済的なピラミッドを日本の歴史上に築いたと思います。非軍事性において明治時代と異なり、普遍性にお いて徳川時代等とも異なります。
 戦後五十年は平等性、高度性等の点において、素晴しい時代を作ったと思いますし、後世の歴史家もそう言うだろうと思います。日本では、九四%ぐらいが高 校へ進学し、約四○%ぐらいが大学へ進学しますが、これほど就学率が高いのは、日本の他にはアメリカぐらいのものです。そして、国民の八○%から九○%が 中産階級だという意識を持っています。その上、世界で一番の長寿社会になりました。これぐらい政治の勝利を物語るものはありません。
 これらのことを成し遂げた戦後五十年とは素晴しい時代であり、その基礎となったのが、自由民主党と日本社会党の対立による五五年体制です。約三十数年に 及ぶ五五年体制が、日本に自由主義と民主主義、保守主義をもたらしたのです。しかも新保守主義には、社会福祉や環境問題等においてずいぶんと社会民主主義 的要素を取り入れており、その結果として例えば財産税は先進国中では日本が一番重いのです。ですから、日本ではみんなが中産階級意識を持っているわけで す。新保守主義と自由主義、民主主義が日本をここまで持ってきたのであり、社会主義ではありません。
 しかし、五五年体制の最後に、制度疲労による汚職等が発生し、その上に冷戦が終了して世界が混乱期に入り、今は政界再編という新しい時代の幕が開けたのです。

「アジア・モデル」は世界経済の牽引力

 戦後日本の第二の功績は、世界経済の上で「アジア・モデル」を作ったことです。日本を先頭にして、韓国、台湾、シンガポール、香港、インドネシア、タイ、マレーシア等が世界経済の牽引力になっています。
 この成長の基礎にあるのが、国家がある程度方針を示し、それに従って民間が起こした企業に対して、ある程度の保護や規制の下での激烈な競争やシェア争い をやらせる中で、費用低減の法則が活用されて、大量生産による輸出が増進し、その収益で科学技術を発展させ、R&Di研究開発)をして来たという日本型ス タイル、あるいは集団主義です。それを韓国や台湾、香港等がまねているのです。これがアジア・モデルであり、開発途上国が追ってくる方向なのです。
 これを「開発経済」と定義して経済学的に立証したのが村上泰亮君です。世界経済の牽引力となっているアジア・モデルを日本が先頭を切ってつくり上げたことは、世界史にも残ることでしょう。
 開発途上国はこの道を追って来るのであり、それが成長して世界経済のエンジンになってゆくのです。
 しかし、その繁栄の陰では、国家意識が非常に希薄になり、それと同時に日本人の品位が下がり、エコノミック・アニマルと言われるようになり、町人国家の ような発想が出てきて、日本が世界的に孤立してきたともいえるのです。そして教育に失敗して、中学生の自殺やオウム真理教で犯罪を犯した学生が出たので す。家庭教育の崩壊もその一つです。

「第三の開国」に向けて新勢力を集結

 そこで、このような混乱の時代に入った我々はどうするべきなのでしょうか。それには、マッカーサーによる占 領下の日本について、もう一度考え直してみるべきだと私は思います。あの時には戦争に負けて、偶像崇拝が破壊され、一切の価値と権威が追放され、世の中は 混乱を極めていました。その時に我々はばらばらになった国家を何とかしてまとめるために、まず理念を考えました。戦争集結を成された天皇を中心にして民族 のユニティを回復して、早く独立国家を回復しようというのが我々の考えでした。
 占領下に人民の考えを知らせる方法は、政府を叩く以外にはありませんでしたので、吉田茂首相や自由党を叩くことを言わば一つの道具として、マッカーサー に国民の声を聞かせたのです。そのような、ある意味での吉田首相らとの分業体制の下で、日本を平和条約にまで持っていったのです。
 今日の我々にも同じく、理念と道具が必要です。その理念とは、明治維新とマッカーサーの改革に次ぐ、自ら行う「第三の開国」だと私は考えます。これから は、安全保障や経済の再建、政治の再建、ディレギュレーション(規制緩和)、門戸開放、国際化等の問題について、大きなスケールの改革構想で進まなければ なりません。ですから、まさに第三の開国であり、そのための理念を統一するべきだと私は言っているのです。実際、村山さんたちがやっていることはそのいく つかの部分なのです。しかし全部を統括する壮大な理想や理念がいまだにありません。それを哲学的や政治的に確立することが学者の大きな仕事になるでしょ う。
 もう一つの道具については、今のような連立内閣で、果たして第三の開国ができるかという問題があります。これについては、私はある程度の新しい勢力が新 保守自由主義と一部の中道勢力の下に集結される必要があると考えています。その中では、国連憲章と日本国憲法の関係や、非常事態における日本の内閣の権 限、あるいは日本の貿易黒字の原因とされている貯蓄と投資のバランスを改善して、日本の生活水準を上げていくこと等が大きな課題となります。
 例えば、貯蓄と投資のバランスを思い切って使ってゆく方向に改革していくことが、アメリカとの経済問題を解決する基本になるわけです。首都機能の移転や 新しい国土軸の形成、大学や研究機関の大幅な刷新による研究体制の強化等のような大事な問題を一つひとつこれから取り上げて、十年から十五年かけて解決す ることが必要なのです。
 これが国際的孤立からの脱却や、ディレギュレーション、国際的に一番の問題とされている日本の貿易黒字の解消、政治改革等の基本になってくると考えています。
 今日は時間がないのでこれで止めますが、皆さんも一人一人、自分の考えをまとめて行動して下さい。

Posted in Uncategorized Tagged