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1996/10/31 第5回

1996/10/31 第5回

宮澤 喜一氏 : (元総理大臣)
「21世紀への委任」

 

宮澤 喜一氏 : (元総理大臣)

大正8年10月生まれ。広島県出身。元内閣総理大臣。衆議院議員、昭和16年東京帝国大学法学部卒後、大蔵省に入省。昭和28年参議院議員初当選。昭和42年より衆議院議員に。平成3年内閣総理大臣に就任。

二十一世紀への委任

二十一世紀を目前に控え、我々は戦後五十年間に日本が行って来た選択の意味を再確認しつつ、新世紀への選択を成さねばならない。宮沢元総理が、日米安全保障条約や六○年安保、湾岸戦争等の往時の重要な選択の意義を説き明かしつつ、新世紀日本の課題を語る。

過去五十年間の日本の選択を振り返る

 戦後五十年たちましたが、二十一世紀も近いので、「過去五十年間の日本の選択」というテーマについて、私の経験を述べながら、二十一世紀は若い皆さん方にお願いをしなければなりませんから、どういう問題があるかということについてお話ししたいと思います。
 戦争が終わったのは昭和二十年の八月十五日ですが、同月十七日に東久邇稔彦内閣という、日本で初めてで、その後も例がない皇族首班の内閣ができ、私は大蔵省にいましたが、津島壽一大蔵大臣の秘書官になりました。
 誰も戦争に負けたということがどういうことがわかっていませんし、占領についてもどういうことかよくわかりませんでした。とにかく電気がついてうれし かったというようなことなのですが、屈強なアメリカ兵が来るというので、婦女子の安全を図らなければならないから、政府が慰安所をつくろうという閣議決定 をしています。そこいらが、まず占領というものではないかと思いました。
 占領とは、文字通り政府がやることの?の上げ下ろし一つにいたるまで、第一生命ビルに居るマッカーサーの指示を受けるのです。地方には軍政部があり、県 庁の人はみんなそこへ行って指示を仰ぎます。これ以上の屈辱はないのですが、そういう状況であって、それは行政府ばかりではありません。国会そのものに占 領軍指令部の国会担当者が乗り込んできて、こうやれ、ああやれと指示をするのです。
 私が総理大臣のときに、あるアメリカの八十歳ぐらいの人の叙勲が書類で来て、読んでみると、この人の功績は日本の議会制度の確立に非常に寄与したと書い てありました。私はその人のことはよく憶えていますが、国会へ乗り込んできて、ああやれ、こうやれと指示をした男であり、別に悪い人ではありませんでした が、五十年たつとそういう指示が議会制度に寄与したことになるのだなと複雑な思いがしたものです。したがって、よい占領などは本来はあり得ないわけです が、ソ連ではなくアメリカが占領したことは、不幸中の幸いであったかもしれないと思います。
 日本政府という大組織があり、一方に占領軍という大組織があると、日米が対立するのは当り前ですが、そのうちに例えば、財政は財政同士、交通は交通同士 で気持ちが通じてきますから、相手国との対立が自国の部門同士の対立になったりします。組織とは時間がたつとそういうものですが、それをうまく利用したり して、何とかやってきました。

第一の選択は、日米安全保障条約

 しかし、昭和二十四年頃には、もう占領はごめんだと日本は思うし、アメリカもマッカーサーが、「占領は長くやってはいけない」という哲学を持っており、当時の吉田茂総理大臣も早期に占領を終結させようと努力していました。
 しかし、不幸にしてアメリカとソ連の関係が非常に悪くなっていましたから、アメリカと講和をしたとしても、おそらくソ連はそれに加わりません。そうする と、ソ連との間には戦争状態が続くこととなり、危なくてしょうがない。それで吉田さんが、日本は独立をするのですから、独立国日本がアメリカと日米安全保 障条約を結んでアメリカに守ってもらえばよかろうと考えたわけです。しかし、アメリカのほうからそれを言い出すわけにはゆきません。
 それで、昭和二十五年に、池田勇人大蔵大臣が財政や経済の相談をするという名目で訪米し、「早く講和をしたいので、日本から言い出すから、日米安全保障条約を結んで欲しい」という吉田さんの意向を伝えました。
 サンフランシスコで講和会議が開かれたのは、昭和二十六年の九月です。私も随員で行きましたが、講和会議に出た代表団や新聞記者はほとんど亡くなり、私 はその生き残りです。ソ連は最初は会議に出ていましたが、北方領土の問題を巡ってグロムイコ首相代表がアメリカのダレスと言い合って、退席してしまいまし たから、講和条約にはソ連は署名をしませんでした。従って、その後、今日までソ連(ロシア)との間の講和条約は結ばれていません。世界の自由主義国家群と は講和しましたが、共産主義国家群とは講和ができない状態になるわけですから、日本のためにならないので反対だという世論は、実はかなり強いものでした。 左翼はもちろんそうですが、常識のあると思われる方でも、例えば東京大学の南原繁総長が部分講和はいけないと言ったので、吉田さんが「曲学阿世の徒の空論 である」などど怒ったのですが、世論がかなり部分講和には反対でした。
 ですから、この講和条約が国会にかかったときには、社会党はもちろん反対であり、安保条約に至ってはもとより反対です。社会党は、安保条約反対、自衛隊 は違憲、朝鮮半島には朝鮮民主主義人民共和国はあるが大韓民国は認めないということを、昭和二十六年から村山さんが基本政策を転換した昨年まで言い続けて きたわけです。
 昭和三十四(一九五九)年に社会党の浅沼稲次郎書記長が、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共通の敵である」と発言していますが、同じ年にドイツで は、ブラントやシュミットなどのソーシャルデモクラッツ(社会民主党員)が、バート・ゴーデスベルクで綱領を出して、「自分たちはマルキシズムの政党であ ることはやめて、国民政党になる」という宣言をしています。
 現に、いまイギリスで選挙があれば、おそらく労働党が大勝するだろうというように、この人たちはマルキシズム政党であることをやめて、国民政党になり、 国民と一緒に政治を行ってきました。勝ったり負けたりですが、西欧には今日まで社会民主党がきちんと存在しています。一方、アメリカには社会民主党は存在 しません。
 日本の社会党は四十年近く遅れたわけですが、基本政策の転換の必要性に気がついたのは結構で、私は村山さんは偉いと思います。

日本にも「社会民主党」があってよい

 さて、社会党の新党問題ですが、いまだにどういう政党ができるのかはっきりしません。私ども自由民主党は市場経済がよいと考えている政党です。こ とに日本は、知識水準が高く、勤勉で、自分自身の価値観を持ち、自由に自分の生活設計をしています。  ですから、経済は自由で、政府は余計なことをしないほうがよい。税金は安いほうがよい。規制は少ないほうがよい。福祉社会は大事だが、だからといって高 い税金をとり、休みを増やさなくてはならないとは限らず、アメリカのようにボランティアでもずいぶんやれることがあるし、保険会社にもやってもらえること があると私どもは考えてきましたし、これからもそう考えてゆきます。
 しかし、西欧のソーシャルデモクラッツは、伝統的にそういうわけにはいかないという考えです。市場経済にはそれなりの欠陥があり、ことに世の中には貧し い人と富む人の間に財産の差、あるいは所得の格差がある。そういう貧富の差を再配分することが、そもそも政治の機能であるとソーシャルデモクラッツは考え ます。  ですから、高額所得者からは高い所得税をとるべきである。資産課税は厳しくすべきである。産業政策も労働政策もある程度は政府がしなければならない。そ れがために政府があるのであり、極端に言えば、市場経済でよいのなら政府は要らないのだという立場です。
 そういう立場の政党が日本でどれくらい成功するかは別ですが、そういう政党が生まれてくるのなら、私はまことに理屈が合っているとは思いますが、社会党 も四十年間も見当違いのことを言って来たものですから、今さらソーシャルと呼ばれるのがどうも嫌いらしいのですね。「社会」というと、あの「何でも反対 で、とんでもないことを言う」というイメージがあるので、それで「リベラル新党」というわけです。
 しかし、日本の憲法はリベラルですし、自由民主党にしても、「リベラル・デモクラティック・パーティー」なわけで、みんなリベラルなのですから、リベラ ル新党と言っても、国民にはどういう政策なのかわからないのではないでしょうか。ですから、余計なことを言うようですが、私は日本の将来のためには本当に 何かの考えを持った政党が生まれてほしいと思います。そうであってこそ、国民も小選挙区での政策判断が下せるのです。  西欧を見ても、高福祉・高負担が行き過ぎると、保守党が税金を下げる政策を打ち出します。日本もそうであれば、有権者も政策の選択がしやすいだろうと思 いますが、なかなかそうはなりそうにないので、心配をしています。
 以上に述べたように、吉田さんの日米安全保障体制の選択が、戦後わが国の第一の選択であり、これが今日に至るまで我々の政治のあり方に影響していることは、ご承知のとおりです。

第二の選択は、六○年安保

 第二の選択は、一九六○年の安保騒動です。いま社会の第一線で、会社や役所、マスメディアでもトップで、局長や部長として大いに働いている人たちが、あの安保騒動のときの闘士です。みんな反対制側の闘士で、闘士だけあって今でも立派な仕事をしています。
 吉田さんの選んだ安保体制に対しては、社会党などの左からの攻撃ばかりではなくて、追放解除のなった人々からの攻撃もありました。戦前から働いていた代 議士がみんな公職追放になっており、立候補もできないし、会社にも行けないことになっていました。それが占領が終わると追放解除になるのですが、そこで、 「日本がすっかりアメリカの手下のようになっている。またこの新憲法は何事だ」というように考えるわけです。  確かに安保条約は、日本が攻められたときはアメリカが守ってくれるが、アメリカが攻められたときは日本は守りには行かないという条約です。「日本は憲法 により戦力を持たないわけだが、これでは平等ではない。よくもそんな恥ずかしいことをやったな。大体この憲法からしてよくない」というのが、追放解除に なった鳩山一郎さんや、岸信介さん達の考えでした。
 そこで、これはひとつ変えなくてはならないというので、アメリカへ行って、「とてもこんなことではいけない。我々は日本が攻められたときには守ってもら いたいが、アメリカがせめられたときにも日本が守りに行きます。安保体制をそういう平等のものにします。そのためには憲法も変えます」と言うのですが、当 時のアメリカの国務長官ジョン・フォスター・ダレスが吉田さんの時代に、「おかしいじゃないか。日本もしっかりしろ」と言ってすいぶん揺さぶりをかけまし たが、吉田さんが、「こんな貧乏国が軍隊なんか持てるもんですか」というようなことで、とうとう押し通してしまったものですから、ダレスに、「結構な話だ が、ここまできたらとてもあなた方の言うことは日本では受け付けられないでしょう」と言われて、安保改定の内容は何でもないものになってしまったのです。
 これは今でいうと、「普通の国」になろうという運動だったのですが、一九六○年の安保騒動で、「普通の国」の話はおしまいになってしまいました。
 安保騒動は、もう一歩で革命にいくというぐらいに盛り上がった騒ぎになりましたが、安保改定の内容は、何でもなくなってしまっていましたので、それ自身 は騒ぐ価値はなかったのです。しかし、追放を解除された人たちのリーダーシップあるいは権威主義に若い人達が反発をして、おまけに明日まで頑張るとアイゼ ンハワーが来日できなくなるという日がわかっているわけですから、これは戦術的には政府側のミスもあったと思います。

オイル・ショック時に学べ

 しかし、池田勇人総理大臣の所得倍増計画などですっかりそちらのほうの話はなくなってしまいました。岸さんは、佐藤栄作総理大臣の時代に、きっと その話をまたしてくれるだろうと期待していたようですが、とうとうそういう話はなくて、その後、日本は経済重視の路線に向かってゆきます。
 それから日本の経済は順調に育っていきますが、一九七○年代に石油危機が二度にわたって起こり、非常な不況になりました。これは今と状況が似ていますが、とにかく日本は石油が少しも出ないので、どうもならないという話でした。
 私はそれは違うと言いました。当時、石油が二ドルでしたが、「二ドルのものが三十ドルになったら、絶対に供給は増えるに決まっている。それは経済のイロ ハであり、高くなるから困るというのならいいですよ。しかし、なくなるという話は絶対ウソだ」と言って、孤軍奮闘した思いがあります。実際、石油が高く なって困ったが、なくなることはありませんでした。
 そこで、日本には石油はないし、新しい製品はないし、日本経済はおしまいだというような話が多数説であったのに、実際にはいかに省エネルギーを達成するかというので、エレクトロニクスが高度に発展したのです。
 ハイテクノロジーは省エネという必要性から生み出されたのですから、「必要は発明の母」というわけです。当時の多数説はみんな間違いで、日本はかえってハイテクノロジーの先頭に立つことになります。
 現代の日本も本当に困っていますね。ここ何年も一種の閉塞状態で、あっちを向いてもこっちも向いても具合が悪いと多くの皆さんが思っている。しかし、本 当に良い新しいものは、やはり困っているときにしか生まれないのです。調子の良いときは、新しいものは出てきません。ですから、日本にはこれだけの力があ りますから、このままへこたれることはないということを言いたいがために、石油危機のときはそうだったと一言、言っておきます。

第三の選択は、湾岸戦争

 第三の選択は、一九九○年の湾岸戦争です。このときに多国籍軍ができて、サダム・フセインのイラクと戦うわけですが、「日本はクウェートから国内 消費の七割もの石油を買っていながら、カネだけは九十億ドル出すが、汗もかかない、血も流さないとは何ごとだ」と外国から随分言われました。我々も少し金 持ちになっているものですから、いかにもカネだけ出して逃げるのかということで、胸を刺されるような思いを多くの国民がしました。
 しかし、日本にはできることとできないことがあり、外国に向かってこれはできないというためには、これだけならできますということを示さなければ説得力がないだろうということになってきました。それで私が総理大臣のときに、PKO協力法を国会で通してもらいました。
 カンボジアPKOでは、自衛隊を派遣して、橋をかけたり道を直したり、いわゆる国づくりの手伝いをしました。それでも人を二人亡くしています。一人は文 民警察官の高田晴行警部補、もう一人は、ボランティアの中田厚仁さんです。私は一生、これは自分の責任だと背負ってゆかなければならないのですが、しか し、自衛隊が行ってあれだけの貢献をしたことは、国内でも評価されたし、国際的にも評判がよかったと思います。しかし、あれが日本のできる国際貢献の限度 であるとも私は思っています。
 つまりそれは、日本国憲法の下で、戦争前・戦争中の経験にかんがみて、「海外で武力行使をしてはいけない」という言葉に尽きると思います。たとえ国連の 旗の下であっても、また、他国がわが国に攻めてきそうだから、こちらから出かけていってその出端をくじくといったような場合であっても、日本は海外で武力 行使をしてはならない。これが戦後、我々が守ってきた規則であるし、これからも守らなければならないことだと私は思います。

日本は決して海外で武力を行使しない

 当時は、ブトロス・ガリ国連事務総長が新任で非常に張り切っていて、「国連の旗の下に外国へ行って、平和をおさめるばかりでなく、両方が戦ってい るときに間へ入って、戦争をやめさせるぐらいのことが国連軍の仕事だ」と言うので、私は、「日本はもちろんそんなことに参加はできないが、それ以前にそん なことが国連でできるのですか」とだいぶ激しい論争をしました。
 例えば、ソマリアで部族間の争いがひどく食料援助が届かないので、両方の部族を分けて届けようというので多国籍軍を派遣しましたが、アメリカ軍が部族間 の争いに巻き込まれ、アメリカ兵の死体が道を引きずられていくのがテレビに映りましたから、アメリカの国民がとても許せないということで、ソマリアから撤 退してしまいました。
 アメリカのクリストファー国務長官も、「いまの外交政策はテレビで決まる。テレビに何が映るかで、外交政策が左右されざるを得ない時代になった。」と私 によく言います。湾岸戦争のときも、当時のチェイニー国防長官が記者会見で、「CNNで見た」などと言うのですから、テレビの影響は大変なものだと思いま す。しかし、テレビの情報は総合的なものではありませんので、政府は報道があったらすぐに総合的な情報をとるように動かねばなりません。
 とにかく、国連の旗の下にいろいろなことができるかというと、ボスニア・ヘルツェゴビナでも国連軍が人質になったばかりですから、そういうことはできな いということがわかってきました。アメリカ軍がいま一番それを痛切に感じているぐらいですから、日本ができることは、カンボジアPKOで行った程度が限度 だと私は思います。
 また、他国が日本を攻めて来そうだから、あらかじめ出かけていって出端をくじくということは、まさに自衛の名の下で我々が第二次大戦中に行ったことです が、少なくとも我々が過去において自衛の名で行ったことは少しも成功しませんでした。ですから、たとえどういう事情であれ、国外で武力行使をしてはならな いのが鉄則だと私は思います。
 カンボジアPKOでも、自衛隊の部隊が危険に陥ったときですら、「部隊として発砲し てはならず、一人ひとりが正当防衛として発砲の判断を下せ」と自衛隊の諸君にきつく教えたわけです。そうすると普段は、「部隊長の命令に従って行動しろ。 勝手にやってはならない」と言われているのに、このときばかりは、「自分だけで判断しろ。部隊長は何も言わんぞ」ということで、いかにも辛かったと思いま す。
 海外に出ていってもらった以上、無事に帰ってきてもらいたいわけですから、そこのところの手を縛るのは本当に気の毒だという思いが当時もしたし、今もす るのですが、それほどまでにして海外で武力行使をしないということを、我々はきちんと守っていかなければならないと思っています。

日本企業の投資で東南アジアが工業化した

 さて、これは少し違う観点からですが、我々が戦後に経験したもう一つの忘れてはならないことは、プラザ合意だと思います、一九八五年(昭和六○) 年の九月には一ドル=二四○円程度とドルが強すぎたので、日・米・英・独・仏(G5)の大蔵大臣がニューヨークに集まって、ドルを下げようという合意をし ました。
 私が、「どのぐらい下げるつもりだったのか」と聞いてみても、みんな、確たる見当はないが二一○円ぐらいになればよいと思っていたのではないかと思います。しかし、実際には八五年の暮れには円が一九○円台に急騰しました。
 そして、八六年七月に私が第三次中曽根内閣の大蔵大臣になったときは、一五○円台になっています。ですから、あっという間に円が上がって、企業の方々 が、「これではとても採算がとれない。しょうがないから、タイかインドネシアに工場をつくろうか」と重役会で相談をしているうちに、また円が上がっている などということの連続でした。  私は大蔵大臣でしたので、「大蔵大臣は何をやっているのか」と言われ、こんな恥ずかしいことはありませんでした。朝、役所へ行くと日銀などの人が来て 「今日はどうも、また円が上がりそうだから、ひとつ二十億ドル(当時で約三千億円)も買いますか」と言うのですが、そのぐらいの規模でないと効き目がない わけです。しかし夕方、報告にきて、「ドル買いをしましたがブラックホールに投げ込んだみたいに何の変わりもない。吸われてしまっただけです」というよう な事態が続いていくわけですから、企業の方も大変でしたが、私も毎日本当に辛い思いをしました。
 しかし、この間に、日本の企業がASEAN(東南アジア諸国連合)の国々に莫大な投資をしました。それはもちろん自分の企業のためであり、「自衛」とし ての投資ですが、講和会議の一九五一年からプラザ合意の八五年までの三十年間に東南アジアにしたプライベート・インベストメント(企業の私的投資)の二倍 半ぐらいが、プラザ合意から八~九年の間に出ていっています。タイなどには八倍ぐらいの投資が出ていったのです。
 ですから、東南アジアや中国が一挙に工業化に向かいました。現在、東南アジアが二十一世紀の明るいスポットだと言われている一番身近な原因は、日本企業の私的投資による工業化なのです。
 為替は、思わぬ事が起こるので、非常に怖いと思います。為替のスペキュレーション(投機)をやられると、大変なことになります。例えば、今年の二月にも イギリスの名門証券会社ベアリングス・グループがデリバティブ(金融派生商品)で失敗し、巨額損失を出して倒産しました。為替レートが投機の対象になるの は変動制になってからです。
 コンピューターの進歩で瞬間的に投機が可能となり、それにデリバティブが加わると、毎日、一兆ドル単位で取り引きするようになります。どこの国の大蔵大 臣も、「為替レートはファンダメンタルズ(経済の基本条件)を反映している」と言いますが、相場がこう激しく動くと、それは大変に疑わしくなります。ファ ンダメンタスズがそう変わるわけはありませんからね。震災や不景気、政治が不安定と言われる日本の通貨が上がり、ニューヨーク市場で史上最高の株高をつけ た好景気のアメリカの通貨が下がるわけを、きちんと説明できる人はいないでしょう。
 このようなことを、いつまでも放っておいてよいのかと思います。「投資はいいが、投機はいけません」などと私も大蔵大臣のときに言った憶えがありますが、通貨安定は二十一世紀までに何とかしなければならない課題の一つです。

日・米・中の「エンゲージ」が重要

 東南アジアで工業化が進み、生活水準が上がって来ると、自然にこれらの国々も自国の将来の安全性を考えます。 普通、隣国が一番仲が悪いのです が、日本のことはまだ憶えていますね。現在の日本を見ていると、過去のようなことはしないだろうと思っている国が多いですが、昔の戦争のことは憶えていま す。
 中国のことはやはり怖がっています。中国の政府の経済はこのところ年率大体一○%ぐらいで成長するだろうというのが大方の予測するところです。
 そうすると、二千何年かには中国は大変な経済大国になり、軍事大国になります。経済大国になっても軍事大国にならないのは日本ぐらいのものであり、普通の国は経済大国になったら軍事大国になるのです。
 中国は今でも共産主義、マルクス・レーニニズムと毛沢東理論によって共産党が独裁をすると憲法に書いてありますから、デモクラシー(民主政体)になるこ とはありません。したがって、かなりオーソリタリアン(権威主義)な国になります。これは中国人が選ぶことですから我々があれこれ言うことはできません。 しかし、中国が経済大国になり、軍事大国になることは、やはり東南アジアの国々や日本にとっては心配なことです。
 二十一世紀はアメリカと、EU、日本、中国、ロシア、この五つが大体の舞台回しをするだろうというのが私がおつきあいしている世界の政治家の一致した意 見です。そのときの日本経済は、東南アジアの経済と一体化しているのではないかと思います。国内産業の空洞化は深刻な話ですし、価格破壊は消費者にとって はよいことですが、いずれも日本とASEANの国々との垣根がなくなりつつあることを示しているわけであり、そういう観点から言えば、決して悪いことでは ありません。
 そういう二十一世紀を迎えるときに、日本が軍事大国にならないということについて、どのように考えるかが課題となります。私自身は、わが国とアメリカと 中国が絶えず会話を続けて、この地域の平和と安全と繁栄をどうやって保っていくかという、絶えざる相談関係・協調関係があることが日本にとって一番望まし い姿ではないかと思います。
 そういう意味で、このごろアメリカも、「中国を封じ込めるのではなく、エンゲージするのだ」とよく言います。エンゲージとは、絶えず相談に乗ってもらっ て、一緒に仕事をしようという意味合いの言葉です。ですから、キャッチワードは「エンゲージ」なのです。それであればこそ、日本は軍事大国にならなくて済 むと思っています。

日米安保体制の再確認が必要

 そのベースになるのは、やはり基本的には日米安全保障体制だと思います。日米安全保障条約は当初、そして最近まで、日米二国間の問題だととらえら れてきました。しかし、それに加えて、東南アジア全体、中国、あるいはロシアまで含めたこの地域の平和と繁栄の基本となる条約、基本となる体制だと我々は 考えることができるし、考えなければなりません。さもないと、いろいろな状況の仲で、日本自身が軍事大国になっていかざるを得ず、それは決して誰のために も好ましいことではないと思います。
 沖縄の米兵による女子小学生暴行事件はまことに残念なことですが、幸いにして今度はアメリカ側の対応が非常に速いものでした。アメリカ側がこれは大変な ことだと思ったことはしかるべきだと私は思いますし、米軍人・軍属容疑者の起訴前引き渡しに関する地位協定の見直しも合意ができました。基地の整理は、な かなか容易なことではありませんが、ともかく我々のために沖縄の人々が背負っている苦しみは非常に大きなものですから、それに絶えず感謝することを忘れて はならないし、どうやってそれを軽減するかについても絶えず考えてゆかねばなりません。そのことについては、アメリカ側も理解してきていると思います。
 その上で、大田昌秀沖縄県知事が米軍用地強制使用の代理署名をしないということは、おそらく自分の哲学として、日米安保体制には反対だと言っているのだ と思います。しかしそれは、日本国全体が決めることですから、それならば日本の総理大臣が総理大臣としての処理をしなければなりません。そこは極めて明快 なことだと私は思っていますが、沖縄の人々にできるだけ迷惑をかけないようにしながら、安保体制を新しい意味合いを持つものとして、大切にしていかなけれ ばならないと思います。
 安保体制が誰のためかと言えば、第一に日本の安全のためであり、ひとの話ではありません。高か不幸か事が起こらないものですから、マスメディアを始めとして、何となくその一番大事なところを忘れてしまっているようです。
 アメリカでも冷戦後の時代になって、いわゆる「安保タダ乗り論」が根強くあるということを考えて、我々としても日米安保体制の基本的なあり方について再確認しておくことが非常に大事だと思います。

対中関係が今後の一番難しい問題になる

そして、中国とのつきあい方が、これからの一番難しい問題になるのではないかと思います。
 中国は日本との経済協力が非常に大きく、今年の核実験に対しては、中国に対する無償資金協力を我々の抗議の意思表示として削減しました。
 しかし、来年の中国に対する経済協力は、大体二千億円の規模になります。中国の湾港や鉄道、発電などのほとんどのインフラストラクチュア(生産や生活の 基盤)の基本になるような大きな経済協力になるのです。来年中国が核実験を行うのは間違いないと私は思いますが、その時にどう対処するかが、我々にとって の非常に難しい問題になります。
 フランスでしたら、中国のようなことはありませんから核実験に対しても怒っていればいいわけです。中国には日本からの経済協力がありますから、それをど うするかが問題です。中国はむろん、そういう話は嫌いですから、「戦争が終わったときに賠償をとらなかった」などと言うわけです。
 ですから、これからの長い中国とのつきあいについて考えながら、毎日の決断をしていかなくてはならず、そういう意味で二十一世紀に皆さん方が日本をリー ドするときに一番気をつけていかなければならないのは、中国との関係だと思います。これは処理を誤ると、あるいは処理いかんでは、わが国自身のあり方にも いろいろな意味で関係して来る問題なのです。
 充分意を尽くしませんが、時間となりましたので、ここで終わりといたします。

宮澤氏より若者達へのメッセージ

「これからの日本にとって自由というものがなくならないように努力して欲しい。皆さんは自由を当たり前のことと思っているでしょうが、戦争に負けた世代として一番心配することです。」

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